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未知倶楽部コラム

近くの床屋

2006年5月17日

私の近くに小さな床屋がある。今回はその話をしよう。

私の頭髪はいわゆる“ふつう”である。

床屋に入り「どのようにお切りしますか?」と尋ねられれば、私はいつも「ふつうでお願いします」と答える。

若いときは前髪あたりに軽いパーマをかけたこともあるし、ちょっとワイルドにジェルで固めてオールバックにしたこともある。少しくらいはモテたいと思ったから。

既に46歳。

しかし、白髪は一本もなく、髪も失っていない。それに眉毛も濃い。やはり半分入った薩摩の血が効いているようだ。

もうそれだけで同年代との勝負には充分勝っているので、とりたてて複雑な仕掛けを一切必要としていない。

だからいつも床屋では「ふつうでお願いします」。せいぜい暑い夏に「ちょっと短め」とか、寒い冬に「あまり切らなくていい」と言うくらいのものだ。

“ふつう”をスタイルにしているため、散髪する店を選ばなくても平気である。多少しくじって後ろ髪の稜線が曲がっていたところで、一週間も経てば自然に矯正される。大した問題ではない。

ところが私は、近所に3軒ほどある床屋のうち、いつも決まった店に行く。他の床屋に行くことはない。

何故か?

それは、60過ぎの親父さんが好きだからである。パチンコ好きな孝行息子が好きだからである。(なお、私が彼と直接パチンコの話をしたのではない。彼の同級生らしきお客さんと2人で、理髪中ずっとパチンコの話題で盛り上がっている現場に居合わせただけ。)

散髪の工程は、最後が大抵「何を付けましょうか」と来る。私はいつも「いりません。」と答えることにしている。

市販の整髪剤の、あのベタベタ感と匂いとが嫌いだからだ。そしてもっと大きな理由は、私が「大島椿(つばき)油」しか使わないことにある。この油を使うようになったお陰で白髪と喪失から自由になっている、と私は信じている。

ある日のこと。いつもどおり「何も付けなくていい」と返事をする私に親父さんが尋ねた。「いつも何をお使いなんですか?」

私は堰を切ったように大島椿油の素晴らしさを打ち明けた。「私の髪がこんなに美しいのは大島椿油のおかげ」「私の同期は昔はモテたけれど、今では髪が薄くなってしまった。私の勝ちだ。」・・・

それに対してその親父さんは「大島椿油って、そんなに良いのですか。私も使ってみよう。」と答えた。親父さんには余り毛が残っていないのだけれど。

それから1ヶ月と1週間が経った。私はひと月を少し経過した土曜日の朝に床屋に行くことと決めている。

例によって例のごとく、「ふつうでお願いします」から始まり、前菜、メインと進み、最後のデザートの時。その親父さんが「椿油をお付けしましょう」と言ったのだ。

化粧台の奥の棚、目立たない場所から特別に取り出してくれた大島椿油。見ると殆ど使っていない。当然、私は答えます。「お願いします」。

今や、この親父さんだけでなく孝行息子も、何も言わずに椿油を付けてくれる。

この床屋、料金は3,900円。この半端な値段の理由を聞いたことはないけれど、“サンキュウ”だと確信している。この言葉は、心温まる床屋さんにこそふさわしい。

執筆者

未知倶楽部室 室長 賦勺尚樹

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