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六角牛山のふもとに広がるやさしい遠野の街並み。 「遠野風の丘」は、この民話の里の魅力であふれている。ここに来て、遠野のことを 知れば知るほど、やさしい人たちの“よう来たね”の声が聴こえてくるようだ。

枇杷倶楽部店内の様子。 写真奥が“ビワ”にこだわったショップ。 壁面のオブジェは房州団扇を模している
枇杷倶楽部店内の様子。
写真奥が“ビワ”にこだわったショップ。
壁面のオブジェは房州団扇を模している

「20代の頃は不便な田舎暮らしや面倒な農作業を手伝うのが嫌だった」。富浦町に程近い鋸南町の出身である篠原茂幸さんは、家業の農業や民宿を手伝わされた子供のころを回想しながらそう語ってくれた。「安房の地は歴史の表舞台になった時代はなく、特段目立った観光資源があるわけでもない。農業や漁業が基幹産業で、夏の海水浴客を当てこんだ民宿業などで生活してきた素朴な地域なんですよ」。

篠原さんは現在、富浦町役場の職員として、「道の駅とみうら」の駅長を務めている。「道の駅グランプリ2000」で最優秀賞を獲得した事実を引くまでもなく、その目覚ましい実績で名高い道の駅である。また、ここは地元の人たからも「枇杷倶楽部」の愛称で親しまれている。ビワを用いたオリジナル商品は定評があり、徐々にラインナップが増えている。ジュースやジャムだけではない。ビワカレー、ビワ石鹸等々、商品企画力は留まるところを知らない。

そんな篠原さんが地元の魅力に気付いたのは、千葉市に通勤する年月を重ねたある日のことだったという。京葉工業地帯が活発だった往時、内房線の車窓に続く工場群を眺めていたら、ふと、南房総の澄んだ空気や、冬のお花畑などの明るい景色に、有り難さを思い至ったそうだ。それ以来、地元を見る篠原さんの目は一変した。南房総の穏やかな気象条件、大らかで温かみのある人々、そして自分達の先祖が暮らしてきた足跡。これらはすべて地域の文化資源と呼ぶべき、かけがえのない価値なのだ。

人間の生活の営みを受け継いでいくこと――「そこに価値があり、そこに地域の個性が発揮されるのは、むしろこの地域に目立った歴史や観光資源がないからかもしれない」と篠原さん。特産のビワを用いたオリジナル商品の開発を怠ってはならない、と篠原さんが強調するのは、富浦の枇杷作り250 年の歴史そのものを多くの人に感じ取ってもらいたいからだ。「ゆくゆくは“びわの里エコミュージアム”を作りたい」。ビワを使った商品を楽しんでもらうだけでなく、実際にビワを生産する現場に足を運んでもらう仕組みを、枇杷倶楽部を核として設けていきたいと篠原さんは考えている。

その足がかりとして、地域の篤農家への聞き取り調査を始めた。農業技術者としてのバックボーンを持つ篠原さんらしい発見がたくさんあったようだ。「昭和30 年代まで農家が自力で開削した農道、その路肩の石積み、魚を発酵させて肥料を作った竪穴、出荷の際に使われた木箱と藁縄……」。いまや失われた技術だが、富浦の枇杷の歴史を支えてきた貴重な営みがそこにある。篠原さんは当地の枇杷についてますます思い入れを深めている。

東京湾に切り立つ大房岬の崖。 日露戦争前は艦砲射撃訓練の「的」だった。 現在でも砲弾跡が残っている。 (訓練は信管をはずした砲弾で行われた)
東京湾に切り立つ大房岬の崖。
日露戦争前は艦砲射撃訓練の「的」だった。
現在でも砲弾跡が残っている。
(訓練は信管をはずした砲弾で行われた)

現在、枇杷倶楽部の増改築が進行中だ。リニューアルのオープン企画として、ビワ関係の 古い農機具を展示したり、篤農家にビワの苦労話を語ってもらったりする企画展を、道の駅ギャラリーで開催する予定だという。枇杷倶楽部が、訪問者と地元の人たちとの交流促進機能をますます充実させる日は近そうだ。

枇杷倶楽部は南房総観光のポータル(玄関)機能も担っている。美味ツアーや花摘みツアーの情報を入手することができる。もちろん季節になると枇杷狩りツアーも。篠原さんによれば「最近は大房岬のガイドツアーの人気が高まっている」とのこと。20 人ほどがガイドとして活動しているうち、取材時に担当してくれたのは蓮沼美栄さん。もと横浜市で教員をしていた人物で、定年を機に房総に移り住んで来たのは2 年ほど前。「たまたま空いた物件があったからここを選んだのだが、いまや地域にすっかり溶け込んでいる」そうだ。農作業をしたり、ボランティアガイドをしたり、地域のイベントに参加したり、といった日々を通じて、人生のセカンド・ステージに確かな手ごたえを感じている。

現代も自衛隊の巨艦が往来する 大房岬沖の浦賀水道
現代も自衛隊の巨艦が往来する
大房岬沖の浦賀水道

さて、大房岬は東京湾に突き出た小さな半島で、南房総国定公園の一角をなす奇勝だ。大房岬、地元では「たいぶさ」と呼ばれているこの辺りは、古い伝説と仄暗い近世・近代史に彩られている。増間島の伝説や弁財天洞窟の説話、役小角の旧跡など、蓮沼さんから次々に飛び出す話に興味は尽きない。しかし、より強い印象を残すのは、なんと言っても軍事施設としての歴史だ。蓮沼さんが「ここの大砲が実戦で活躍したことは、これまで一度もありません」と説明してくれた時には人懐っこい笑顔が浮かんではいたが、ここは江戸時代後期以来のれっきとした要塞だ。文字通り、帝都守備の“最後の砦”として、先の戦争まで砲台が置かれていた。同じような戦争遺跡は国土の至るところに存在するはずなのに、今やその歴史が巧妙に隠されているかのようだ。ここ大房岬とて例外ではない。砲台の台座はレンガですっかり覆われ花壇となった。哨戒のために用いられた施設は、そのコンクリート構造物をひっそりと残すのみで、周囲は雑木の生い茂るままとなっている。蓮沼さんにそれと教えてもらわなかったら、気付かずに通り過ぎていたに違いない。

彼岸花

彼岸花が咲き誇っていた。路肩にも、畦道にも、土手にも。東京から房総半島を南下するにつれ、真紅の花がその姿を増やし、富浦辺りでは至るところで目についた。帰りに乗ったタクシーの運転手さんがこっそり話してくれた。「救荒作物として利用されていた時代もあるみたいですよ」。彼岸花の地下茎は、毒を含んではいるものの、豊富な炭水化物を有するのだという。

駅長の篠原さんが語っていたことを思い出した。富浦には低い丘陵地が多く、房州の他地域と異なり棚田が少なかった、と。海岸寄りの傾斜地を利用してビワ栽培が始まったのが江戸時代中期。その後、先人たちの努力と労苦によって品種改良や技術革新が進んだ結果、明治の後期に至ると富浦のビワは皇室献上品として名を馳せることとなった。稲作になじ まない土地柄が、かえってビワの栽培に適していたということだろう。こうして富浦のビワは、高値で取引される重要な産品として、この地域とともに長い歴史を積み重ねてきたのだ。彼岸花の鮮烈な赤を見るにつけ、ビワに対する富浦の人々の深い誇りと揺ぎないこだわりが改めてひしひしと感じられた。

取材:2005年10月
本文の記載内容は取材当時のものです。ご了承ください。
篠原駅長(当時)はこの4月から、南房総市の商工観光課長として活躍なさっています。
また、後任の駅長さんに福原正和さんが就任なさっています。

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駅長からひとこと

駅長 鈴木賢二

 枇杷の名産地・南房総市富浦町にある道の駅です。花に囲まれたカフェやオリジナルの枇杷商品が満載です。2000年の「全国道の駅グランプリ」では、最優秀賞を受賞、また、2015年「全国道の駅モデル」にも選ばれました。近くの直営農園では、びわ狩りやいちご狩り、花摘み、食用なばな摘みも堪能できます。
 南房総のコンシェルジュとして南房総全域のご案内もしていますので、南房総にお出掛けの際は、枇杷倶楽部にお立ち寄りください。