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未知倶楽部コラム

近くの酒屋

2006年10月04日

我が家が入居しているマンションの近くにとても古い酒屋さんがあります。私が少年だった30年前とか40年前に良く見かけた木造の酒屋の姿そのままです。

最近は都心でのマンション建築ラッシュで、この辺りの街並みも大きく変わりました。近くにあったコロッケパンで有名なパン屋さんが名物親父が亡くなったあと店を閉めた一方で、酒屋の前の小さな道路を隔てた場所には新しくフランス料理屋が出来ました。そんな中、この店だけがポツンと置き去りにされた感じのするちょっと可哀想な店です。

余談ですが、この店の外にはありとあらゆる盆栽や鉢植えが無造作に置かれていて、それなりの植木屋に持っていけば結構高値で売れるのでは、と、妙なことを感じてしまうことがあります。

さて、この酒店を細々と守っているのは老夫婦です。奥様の方はそうでもないのですが、この店の親父さんは愛想が悪いのです。

かつてこんなことがありました。うちの娘が未だ乳飲み子の頃、家内が自分で運べないのでミネラルウォーターを1ダース配達してほしいと頼んだところ、この親父は‘忙しいから一週間待ってくれ’。体よく断られました。

また、こんなこともありました。家内が家の整理の為にカートンを探しており、たまたまこの店の脇に山積みにされた古いカートンを見つけて譲って欲しいと頼んだのですが、‘他に使い道があるから駄目’とにべもなく断られてしまいました。

家内からこんな話を聞いて、私もこの酒屋に余り良い印象を持っていなかったのですが、私はここで時々お酒を買い続けました。

理由は、重たいものはなるべく家に近くの店で買うことを心がけているからです。家の周りにはディスカウント・リカーショップ(安く酒類を販売している大型店)はありません。駅と我が家との間にはコンビニやスーパーもあるのですが、どこで買っても同じ値段、それなら近いところでという考えからです。

買い物は続けながらも、この店と私の間では、心の奥底でちょっと冷え切った関係が続いていました。

ところがある暑い夏の日のことです。

私は家にビールをストックする習慣はありません。酒類に関しては必要なものを必要な時という方針を持っており、とりわけ暑い夏となると家で食事をとるとき頻繁にこの店に立ち寄ります。

この愛想のない親父がたまたま機嫌が良かったのか、にこにこして‘暑いですね’と話し掛けてきたのです。

私は驚いて、思わず
‘ここのビールはスーパーとかコンビニよりよく冷えているから買うんですよ’
と妙にへりくだって言ってしまったのでした。

更には、‘暑い日には家に帰って直ぐビール缶をシュパッと空けて飲みたい。他のスーパーとかコンビニのビールは余り冷えてないのでいったん家の冷凍庫に入れなければ飲めない。でもここのは冷えているから直ぐ飲める。だからここで買うんです。’

思わず口走ってしまったけれど、まんざら嘘ではない。いやそれどころか、ここで買い続けていた本当の理由が実はこれだということをを初めて認識したのかもしれない。

いつも無愛想なこの親父は、ここぞとばかりに満面の笑みで説明します。
‘うちの冷蔵庫は冷却機能が他とは違う。冷たい空気が全体に均等に回るファンがついている。だから、缶の表面だけでなく、ビールそのものが冷えている……’

私も話に頷き、そして沈黙の気まずさを打ち消すようにして、冷蔵庫の機能とか値段とか、いつから店を開いているのかとか、思いついたまま聞いてしまいました。

延々と続く会話のなかで、古い町並みがどんどん姿を消し、そして自分達の居場所が失われつつある、といった話まで、親父さんは神妙な面持ちで語ってくれました。あの愛想の悪さは親父さんの寂しさの裏返しだったのかもしれません。

それからです。お酒を買うときは必ず、この老夫婦とちょっとした会話をするようになりました。時には、子供の話から家内の話まで。
また、店先で会えば必ず相手から挨拶をしてくれます。

マンションが林立し、近くに大きな商業ビルが建ち、そして洒落たスーパーも新たに出来ました。
それでも私はここの酒屋で二日に一度は冷たく冷えた缶ビール2本を、そしてたまには景気良くワインを買うことにしています。

同じお金を払うなら、知っている人に払いたい……私は愚直にもそのようにしています。
執筆者

未知倶楽部室 室長 賦勺尚樹

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