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未知倶楽部コラム

汚された『しづも清水』の看板

2009年04月30日

私共の道の駅より、国道19号線を約4q程北上すると「道の駅賤母」があります。

そして、道の駅賤母には「しづも清水」と命名された湧水があります。

賤母の山は原生林に近い自然林で、温帯と暖帯の植物が混生し約600種類もの草木が自生していると言われます。この狭い地域に600種類もの植物が混生していることは、植物学的にも貴重な地域として昭和37年「学術参考林」に指定され特別に保護される事になりました。

この貴重な裏山から湧き出た清水を道の駅賤母の飲料水として使用しています。

そこで、数年前、道の駅賤母の駅長が訪れて皆様にこの水を飲んで疲れを癒して貰おうと考え、丸太を刳り抜き、水槽にして「水飲み場」を建設しました。

そして、「しづも清水」とその説明書きの看板を設置しようと考えましたが「トタンやアクリル板にペンキで書くのも味気なく、もっと趣のあるものが出来ないのか?」と思っておられたところ、私共の道の駅で使用していた「新そば」の看板を見て「同じようなものが出来ないのか?」との相談がありました。


新蕎麦の看板
新蕎麦の看板
その「新そば」の看板は、実は私の父親が作成したものでした。

といっても、私の父親は看板業を営んでいる訳ではありません。たまたま「書」が得意で、比較的綺麗な字を書くので特別に頼んで作って貰ったものでした。

そして、道の駅賤母の駅長の話を父親にしたところ、「しづも清水」の看板を書くことを快く引き受けてくれました。

前行で「たまたま書が得意で...」と書きましたが、これを父親が知ったら怒られてしまいす。

私の父親は地方公務員で、もともとは土木バタケで農政、林政の仕事が長く、書、筆文字には縁が無い部署でしたが、晩年、議会事務局長に就いた時、どうしても筆文字が必要になり、それまでも綺麗な字を書いていたのですが、やはりチャンとした「書」の先生に教わる事を決意、五十の手習いで書道教室に通って、苦労の末、筆文字が得意になりました。

・・・余談

汚された看板
汚された看板
私に置き換えれば、私も、もともとは事務職でありましたが余儀なく、必要に迫られて蕎麦を打つようになりました。

こんなところは親子似ていますねぇ...と余談になり申し訳ありません。

その「しづも清水」と説明書きの看板が先日、黒のラッカーで塗りつぶされてしまいました。

心無い悪戯です。

道の駅賤母の駅長、私の父親の気持のこもった看板を汚されて悔しくて仕方ありませんでした。

修復するには、また板を削り書き直さないといけないと思いましたが、また父親に頼むのも心苦しい思いもありましたが、取りあえずその状態を携帯電話で撮影し、父親に見てもらったところ、「いいぞ、また書いてやるぞ」との言葉、早速、道の駅賤母の駅長に電話し看板を取り外しもってきて貰いました。


その後、父親に渡し、書き直しをお願いしたところ、その看板は普通に書いただけでなく、丁寧にコーティングを施していた為、ラッカーを比較的簡単に拭き取る事ができたようで、板を削る事も書き直すことも無く修復する事が出来ました。

修復した説明看板
修復した説明看板

黒のラッカーで悪戯をした人には、上記のような経緯があった事など解りはしないことですが、どんな物にも人工的に作られたものであれば、特に作り手の想い、背景があります。

人を思い遣る心があれば、絶対に出来ない行為です。

このような行為をする人は悲しい人です。




【余録・近況】

4月も今日で終わりです。

新年度に入り、時の流れを早く感じます。
そして、年度末から新年度に於いては、別れ、出会いも多い時期です。部署が変わったり転勤など、毎年同じ事の繰り返しで、過ぎていきますが、今年は少し違いました。

嫌な事、辛い事があった時など「人生をやり直したい」と皆、一度は思った事はあると思います。
でも、テレビゲームとは違い人は「リセット」出来ません。
生きた分だけ積み重ね、それが人生です。

ただ、立ち止まり、振り返り、原点に戻る事は可能です。

私が今の仕事に従事させて頂いた時には、前々任者が販路も確立していないのに「栗」を使用した加工品の通信販売等を行う為の過剰な投資で会社は債務超過、経営コンサルタントの方には「人間に例えると『蘇生不可能な瀕死な状態』です。」と言われる程でした。

じゃ、そこで何が出来るのか考えた時、会社設立には立派なコンセプトがありました。

簡単に言えば「椛(はな)の湖自然公園のそばを使い町おこし」です。

私は、今までこのコンセプトを忠実に実行してきただけであり、その過程で何度も「原点」に戻り、悩み考え抜き沢山の人に支えて頂きました。「原点に戻る」...他の地域から来た人には「生まれた地」へ戻ることでしょうか?

比較的近くで私を支えてくれた人がこの時期に「生まれた地」へ戻りました。
最後にお逢いした時「さよなら」の言葉は言いませんでした。

また逢える事を信じて...


執筆者

道の駅きりら坂下 支配人 三尾弘成(みお ひろしげ)

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