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未知倶楽部コラム

「歴史と伝統」

2008年01月15日

「歴史と伝統」@
2008010502

SNSが盛り上がっていますが、コラムも疎かに出来ません。

2008年、平成20年の新年を向かえ、私共の地域周辺では商売繁盛を願う「えびす大祭」が各地で行われます。

中津川市坂下「五日えびす」、恵那市「七日えびす」、中津川市付知町「八日えびす」、中津川市えびす町「十日えびす」と...。

当地の「五日えびす」は出雲福徳神社です。

五日えびすは、新年を迎えて何処よりも早い最初の「えびす大祭」になり、出雲大社からの分霊した神社は東海地方には一社だけです。

私共では三年程前からは、境内で「かけそば」を販売させて頂いております。

もちろん、今年も参加、出店させて頂きました。

「歴史と伝統」A
2008010503

当日は、元旦に降った雪もすっかり溶けて、例年この時期が一番冷え込みますが、今年は例年よりも寒さが和らぎ、天候にも恵まれ、また土曜日という事もあり、沢山の方が参拝に見えました。

例年通り、午前五時より御札の頒布が始まり、「御札の頒布は午前中に受けるもの」と言われるように地元の方は午前中に集中し、午前11時頃には長蛇の列が出来ており、御札を迎えた後は、無言、無駄口を言わないで帰宅される方が多く、「宝くじにご利益がある」境内の石像に触る方は殆どいません。

午後になると地元以外の方が増え、今度は殆どの方々が石像のお腹の部分を触り、購入した宝くじで擦る風景も多くみかけるようになります。

そして、午後3時頃には、「残り福」ということで地元の喫茶店の奥様が御札の頒布を受けにみえ、この方がみえると大祭の終了の合図の様に片付けを始めるというのが例年のパターンになっております。

そして、今年は中津川市えびす町・西宮神社の「十日えびす」にも行ってきました。

出店とかでは無く、平素大変お世話になっている岐阜FMのパソナリティーが取材で訪れるとの連絡があり、新年のご挨拶もしたかったので仕事の合間を縫って出掛けました。

「歴史と伝統」B
2008.01.10

十日えびすには、前職、前々職が旧中津川市市街地にあった為、毎年のように行っていましたが、最近ではなかなか行く機会が無く10数年ぶりに出掛けました。

私が行った時間が一番人出が多い時間帯、午前10時過ぎでしたが、神社の前には長々〜〜長蛇の列で露天商も多く、駅前から神社までの歩行者天国、脇の商店街共に「中津川市にこれだけの人かいるのかなぁ?」と疑いたくなるような凄い人の数、まして今日はウィークデー、平日です。

凄い人に圧倒されました。

西宮神社は、兵庫県西宮市の毎年「1番福の福男」レースで有名な西宮神社の分霊で、今年で113回目の「えびす大祭」、一方、出雲福徳神社は、1932年に分霊され、今年で76年と、いくら「宝くじにご利益」で有名になっても歴史、伝統では西宮神社には敵いません。

写真の説明
2008010502 午前5時、御札の頒布が始まった頃の様子
2008010503 午後の様子
2008.01.10 JR中津川駅前の様子



そして、これからの季節には「節分」があります。

私が生まれ育った中津川市付知町の新田子供会では、約40年続く節分行事があります。

通常の節分行事は「○×寺の節分」と由緒正しいものが有名ですが、私共の節分行事は何所のお寺さんにも属さず、歴史、伝統では乏しいものがあると思いますが、秋田の「なまはげ」を真似て行うもので、付知に伝わる節分を後世に受け継いでいます。

毎年2月3日の夕刻、集会場に集まり、神主様よりお祓いを受け、町内各戸を回ります。

「歴史と伝統」C
節分・聖二

丁度、私が小学校に上がる位に始まったもので現在は息子達がそれを受け継いでいます。当時に比べれば子供の数が半分以下となってしまい以前のような賑やかさ、華やかさはありませんが、付知町内にも数多くの子供会がある中、この行事を続けているのは私共の新田子供会だけです。

節分の由来

今から、1,300年位前、日本の国に悪い病気が流行し、その上農作物が実らず人々は苦しみました。その頃のこと、日本の国が安らかで農作物の豊作を願い、悪い病気や災害を鬼にたとえて鬼に豆を投げつける事で家に邪気を寄せ付けない追儺(ついな)の儀式を行った事が始まり、今日に至ったものだと言われています。

(補足 : この追儺は朝廷の年中行事ですが、もともとは中国の儀式で、日本で初めて行われたのは慶雲三年(707年)です。追儺は「おにやらい」とも読み「鬼遣」と書くこともあります。読んで字のごとく鬼を追いやる行事で、これが時代を下るにつれ、次第に民間にも広がっていきます。)

節分は、立春の前日、冬から春へ移る一つの節目です。昔の人は春を待ちかねて節分をし、立春から数えて88日目に種蒔きの目安にしたり、210日は稲作の厄日であるというように農業に大きく関係があります。

「歴史と伝統」D
節分・魔よけ

昔から伝わる付知の節分

●鬼札 → 短冊に切った紙に鬼の顔と「・・・・・・☆」を書いて鬼札を作る。

 「・・・・・・」の「・」は12個描くが閏年は数を変える。

●鰯の頭を箸にさし、鬼札とヒイラギ、ヤドメ、アセボの木の枝を玄関の戸袋に挿す。

説明:@鬼は鰯の臭いを嫌う

   A鬼札の鬼の首だけ見て、家の中には鬼の首を取ってしまうような、自分より強い者がいると不安になる。

   Bヒイラギの葉で鬼の目を突く(ヤドメ、アセボも同じ)

   Cヤドメ、アセボは火であぶると「パチパチ」音がして恐い。

   D「・・・・・・」の数を変えて「今年は閏年?」等と惑わせる。

   E☆の書き出しは何処か?迷う。

●「めかご」を入り口(玄関)の屋根に立てる。

説明: 鬼は数を数えるのがだいの苦手なので、目籠の目の数を何回も数え直すうちに夜が明けてしまう。

●ヤドメやアセボを燃やして豆を煎る。

説明: 豆は必ず煎ったものを使用します。

   「投げつけた豆から芽が出ると悪いことが起こる」という話もあります。

ヤドメ、アセボは、「パチパチ」と音がするので、豆を煎っていることを鬼に気付かれないようにします。

●歳取り、自分の年齢プラス1個の豆を食べる。

説明: 豆は「煎った大豆」である必要があります。大豆であることは重要ではないかもしれませんが、「堅い豆を煎る」ということは必要です。これは「金」を表す堅い豆を「火」で煎ることにより、「火剋金」がなりたつ必要があるためです。「金」は五行思想では病などを表すこともあり、それを剋する、つまり負かすことで病などに勝つ、という願いが込められています。このとき食べる豆は自分の年齢プラス1個です。今まで生きてきた年、そして新たに始まった年、その数の豆を食べることで「金に剋つ」、つまり、病などに負けないという願いが込められています。

秋田の「なまはげ」は国の重要無形民俗文化財に指定されて歴史も伝統もありますが、新田子供会にはそれはありませんが、間違いなく「なまばけ」もこの節分行事もその土地の生活の中から生まれ、受け継がれている事には変わりありません。

時代は大きく変わっても、どの時代も「鬼」は居ます。

このような風習はずっと受け継いでいきたいものです。

写真の説明
節分聖二 「町内会各戸を回り豆まきで厄払いを行う子供たち」
節分の魔よけ 「玄関に飾る魔除け」
執筆者

道の駅きりら坂下 支配人 三尾弘成

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