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未知倶楽部コラム

・・・敵にも味方にもなりうる報道・・・

2007年12月25日


最近は「道の駅」もテレビやラジオで話題になることが増えたようです。
当駅も僅かな露出ではありますが、年に何度かは取材も受けています。
テレビの場合は2,3分放映するために半日がかりの取材...大変だな〜と思ったりもします。
報道する側とされる側の見方、報道の功罪についてちょっと考えてみました。


『風評被害』という言葉があります。
観光関連産業に従事する人に限らず、自分の周りでは起きてほしくないことです。
ネット社会独特の「書込みによる風評被害」も増えていますが、ここでは報道に関わるものについて述べてみたいと思います。

今年は食品(土産品)の偽装問題が頻発しました。災害や事故による風評被害だけでなく、農水産品でも報道のし方ひとつで『風評被害』が起きます。次から次に偽装商品が表面化し、なにやら「流行(はやり)」とさえ言える状況です。(今年を表す言葉も『偽』だとか)
偽装問題においては、騒がれることで内部告発を誘発し新たな不正を暴きだす・・・この際だから膿を出し切ることも必要でしょう。ここでは報道がある意味で不正を正す引き金ともなっているようです。

しかし他方では取材・報道のし方に配慮を欠くものも数多く目にします。特に災害・事故に関しては「いかに被害が大きいか、悲惨か」に焦点を絞り過ぎだと思いませんか?
それを報道各社が競っているようにさえ見えます。一部分をクローズアップすることで、それが全てかのような思い込みも誘発しかねません。能登や新潟での地震・原発事故報道は記憶に新しいところで『風評被害』は今も残っていると言われます。(風評被害だ、と決め付けるのも慎重であるべきですが)

視聴者側から見たテレビの話をしますと、地震や風水害では「レポーター」なる人が危険な場所に入り込み画面一杯に現場を映し出し、興奮した声で「いかに凄惨か」を演出します。その切り取られた一部分は事実かもしれません。しかし、被害を受けていない周りの状況は対象外なようです。
話題性のある、インパクトのある絵が撮れなければ「視聴率」は稼げないのでしょう。

災害や事故で肉親を亡くした人にカメラやマイクを向けるのを見るだけでも不愉快なのに、インタビュー側の「愚問」が怒りを増幅させてしまいます。肉親を失ったばかりの人への配慮など感じられないことが少なくないからです。
「真実を報道する義務がある」と言えばその通りです。しかし被害者の心情に配慮しない報道など見たくはありません。必ず出てくる「卒業時の文集や恩師のコメント」などは興味本位としか写らず見苦しい限りです。ワイドショーもどきを期待する視聴者側にも問題がありますが、被災者・被害者への「パパラッチ」もどき取材行為は謹んでほしいものです。

「マスコミを敵に回すと恐い」という言葉が昔からあります。
宣伝媒体として絶大な力を発揮することもあります。マスコミのオカゲで有名になった・・・
逆に信用を失墜させるのも簡単です。マスコミのオカゲで客が来なくなった・・・
わずか数秒、数分の放映だけで視聴者は善悪いずれかの印象を持ってしまいます。

「事実」は大切ですが「公正」はもっと大切です。1人の、一報道機関の見方が常に正しいとは限らないのですから。全体の99%が好ましい状況であっても、問題のある1%をクローズアップして報道を繰り返せば、全部が悪いような印象を与えてしまう、それが報道の力であり恐さだと思います。

『風評被害』は偏った報道により引き起こされる場合があります。「お気の毒」で済む話ではありません。被害の甚大さを全マスコミが大きく報道し、ニュースの鮮度が落ちるとサーと引き上げる。たまに復興の報道はあるものの話題性に乏しければボツ・・・
かくして「被災地=危険地帯」のイメージだけが視聴者に残ってしまいます。
新聞やテレビの報道はストレートに受け入れがちですが、視聴者側が「正しく判断できる」目を持つことが大切です。

報道の自由は守られるべきことと理解していますが、携わる人たち(プロ)は一般視聴者よりも高い倫理観が求められると思います。しかしながら実態は「ワイドショー」や「バラエティーショー」の芸能ネタと同レベルにしか見えないことも少なくありません。メインとなる司会者もコメンテイターと呼ばれる人も単なる「出演者」でありギャラを稼ぐ仕事の一部に過ぎないからでしょう。
司会者もゲストもコメンテイターも全部「芸能人」という最近の番組に「倫理観」を求めるのは無理があるのでしょうか。お笑いのネタと同等なのでしょうか・・・

ただ、こんな事態になったのは視聴者やスポンサーにも責任があります。娯楽性や刺激を求め過ぎたことと、売り上げや視聴率にばかり目がいってしまったことによるものと思いませんか?
「低俗な番組」と批判を受ける下品な番組でもスポンサーは超一流企業だったりするのです。
政治もマスコミ(文化)も賢い国民・視聴者の厳しい批評の目があってこそ正常に機能するものと思っていますが「見たくなければチャンネルを変えろ」の方向に進んでいるようです。報道の現場も多くの業務が細分化され、下請化しているようですが、責任や倫理観までも「下請け」になっていないことを望むばかりです。

災害時のマスコミ報道は義援金や支援物資の調達にも充分貢献しています。ボランティア支援のきっかけもつくってくれます。しかし目新しいニュースソースが無くなると早々に手を引きます。 (メディア各社は民間企業でもあるのでしょうがない部分もあるのでしょうが)
結局は被災現場・地域の人達が「風評被害の後始末」までするハメになるのです。食品偽装の当事者なら自業自得ですが、降って沸いた自然災害に『風評被害』まで加わると、立ち直るのは大変なことでしょう。(直接被害を受けたことのない私にも容易に理解できることです)

災害時の報道は確かに不可欠で有益です。しかし記事や映像の裏側で深い悲しみに打ちひしがれている被災者の心に、土足で踏み込む報道関係者が少なからず存在することも事実です。 『風評被害』という言葉はこの20年くらいで広がったように思いますが、言葉の使い方一つ、映像の編集一つで受け手の印象が変わるものです。

報道関係者と言えども人間ですので事件や事故に慣れてしまうこともあり得ますが、言葉(文字)と映像(写真)が与える影響の重さを、取材の度にリセットしてほしいものです。そして、情報を受けとる私たちも真実を見極める目と耳を鍛えなければなりません。画面に写らない、記事にならない事実が存在することを知っておくべきでしょう。

実直で正義感の強いジャーナリズムも勿論数多く存在していますが、「儲け」に直結しないものを排除する世の中の動きに負けないか、埋没しないか...心配です。

執筆者

道の駅サロマ湖 杉本武雄

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