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未知倶楽部コラム

情報は金になるか(その1)

2007年08月27日

先月(7月23日)第三回目の道の駅情報大賞を発表させて頂きました。その日以降、 情報について色々考えていましたが、この機会に述べさせて頂きたいと思います。

私は色々な地域の道の駅を訪れて未知倶楽部HPへの情報掲載をお願いしておりま す。現在掲載頂いている道の駅の方は、難しい説明をすることもなくすんなりと掲載 へご協力頂けたのですが、そうでないケースが実は大変多いです。

ご掲載頂けない主な理由は、情報を掲載することが出来ない、つまり基本的なパソコ ン操作が出来ない、そこまで責任はない、あるいは忙しくてそれどころではないなど です。尤も、はっきりとおっしゃらないですけど未知倶楽部活動へ共鳴しない、信じ ない、あるいは自前のHPがあるのでそれで事足りているという理由もあるかもしれま せん。後者の場合においては、我々の力不足を反省して諦めるしかありません。

しかし、技術的な問題、責任の問題、多忙ゆえに掲載出来ないというのがもし本当の 理由である場合には色々と考えさせられます。

確かにIT技術に精通していない駅長さんがいらっしゃいます。しかし、いつも思うの ですが、道の駅は公共施設であるということは公共情報発信の場ですので、どうして も駅長さんがご対応出来ない場合には、何も駅長さんご自身が情報発信をされなくて も良いのではないかと。代わりに他の従業員の方、あるいは市町村の観光担当の方、 NPOの方等、地域の代表の方が掲載すれば対応は可能だと思います。問題はパソコンに 打ち込む技術ではなくて何を打ち込むかをお考え頂ければ良いのです。

次に責任の問題です。

道の駅を訪れ駅長さん、支配人、従業員の方とお話をしていて時々驚くことがありま す。それは実はこの施設に対する本当の責任者が不在である場合です。自分は○○組合 から来ているだけで、本業はその組合であって、この道の駅には時々巡回しているだ けとか、最近の指定管理者制度の不備の問題なのですが、全体施設管理を一社に任せ るのではなく、トイレ、清掃はある会社、物販所はこの会社及び組合、温泉宿泊所は この会社、情報提供は行政とかに分断されているケースです。全体への責任を取る人 はいなく、畢竟(ひっきょう)経営責任者が決まっていないということです。正確な 統計はないですが、このような道の駅は10ヶ所に一つはあるかもしれません。情報掲 載とか発信以前の話でので、もっと管轄している市町村がしっかりしないといけない と思います。

さて最後に、お忙しいからという理由の場合です。

これにはもっと深刻な事情があると思います。忙しいという言葉の意味は、ある行為 と比べて情報発信は優先順位が低いので情報発信にまで手が回らず忙しいというのが 正しい表現です。それではその‘ある行為’とは何でしょうか?施設の維持管理もあ りますが一日中やられていることは稀でしょう。行政の施設ですので会合が大変多い かもしれません。でも毎日一日中ということはないと思います。それではその行為は 何か?それは客への対応、いやもっと正確に言うと販売行為のことだと思います。つ まり販売行為に比べて情報発信は価値が低いということです。平たく言いますと‘情 報なんか提供しても誰も金をくれないではないか、そんなことをするより商品を売ろ う!’ということだと思います。

さてちょっと離れて、別の角度で情報について述べます。それは情報タダ論です。

‘情報はタダ(無料)である’という認識がここ数年の間に恐ろしいほど巷で蔓延 し、常識化しております。でも果たしてそうでしょうか?私はそう思いません。現実 には情報はタダはありません。フリーペーパーにしてもしかりです。掲載されている 記事情報、写真、デザイン等の作業を無償で行なう人はおりません。企画費、取材 費、取材の為の交通費、ライター費用全て色々な人に金を支払うことによりフリー ペーパーは出来ているのです。つまり金(コスト)がかかっているのです。というこ とはそのコストを埋め合わせるべくフリーペーパーの発行主体は利益を上げなくては 継続的な経営は不可能です。そこで出て来るのがスポンサー企業です。発行主体はフ リーペーパーに企業広告を載せ、その見返りにこのスポンサー企業から広告料を徴収 しているのです。でも現実には消費者はこのフリーペーパーを手に入れるに際して金 を支払っていません。であるなら、情報は消費者にとって‘タダ’であり、それはス ポンサー企業が負担していると思うかもしれません。しかし、それは間違いです。ス ポンサー企業は宣伝広告費として計上した全ての費用を商品に転嫁して販売します。 従い、そのスポンサー企業の商品を購入すれば、実は廻り回って結果的に消費者がス ポンサー料(宣伝広告費、情報料)を負担しているのです。勿論、スポンサー企業の 商品を買わねば本当にタダです。しかし、現実に身の回りの商品で広告をしていない 商品は殆どないのでやはり何らかの形で消費者は情報に対して金を支払っていること となります。

商品に転嫁されるコストとは企業が経営しつづける為の人件費、設備維持費、金融費 用等多種多様なものがありますが、全てが廻り回って目の前に見える商品に転嫁され るだけで、実はどんなモノにもタダなものはありません。しかるに、とりわけ、最近 「情報」がひときわ「タダ感」を漂わせています。何故なのか?私は、広告宣伝手法の広 がりがこのような現象を生み出していると考えております。かつては広告というとテ レビ、ラジオ、新聞、雑誌、看板だけでした。もっと古くは祭りの時のちょうちんで す。そこには協賛している商店が出ています。あれも広告です。かつては格調のある 情報コンテンツは、ドデーンとまんなかに鎮座して、それそのものの価値で消費者を 惹き付けお金を稼いでいました。現実にはスポンサー料が収益であったとしても広告 はあくまでも脇役に徹していました。であるからこそ良質な情報コンテンツが誇りを 持って表に出ていたのです。しかし、ネット社会と携帯電話文化が広がり、大きくそ の図式が変わりました。これらの媒体により消費者が接することが出来る情報は膨大 となり、格調のある情報とそうでない情報との間では線引きが困難となり、情報はよ り一層スポンサー企業にとっての商業的価値があるかないかで判断されることなった のです。また、媒体そのものが膨大になり、その媒体も存続するために収益源として スポンサー企業を頼らざるを得ずその結果、種々多様なスポンサーが出現し、どの情 報コンテンツにはどのスポンサー企業の広告が相応しいかを精査することが困難とな る等の混沌状況を呈しております。このようにして嘗ては情報のクライアントは読者 であり利用者であったのが、今やクライアントは企業に急接近、偏ってしまったとの ではないかと感じております。企業がクライアントになると広告価値を単純に量だけ で判断しがちです。量と質とは必ずしも比例関係にはなく、得てして質の優れたもの ほど量には繋がらないという矛盾した面があるにも関わらずです。尤も、それなりに 優れたコンテンツは現在でも健在ですが、やはり嘗てのように一般大衆を強烈に引き 離す程の高い質があるとは思いません。このように情報は企業製品の一部に組み入れ られ、情報そのものはタダと映る、いわゆる情報タダ論による功罪は実に大きいで す。情報を受け取る人の感性の劣化と提供する情報そのものの質の低下です。誰しも タダなものは大切にしません。感謝する気持がなくなるからです。このようにして、 仕舞には「情報」は「タダ」となり「価値」が下位に置かされてしまった訳です。

つづきはコチラから「情報は金になるか」(その2)
執筆者

未知倶楽部室 室長 賦勺尚樹

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